毘沙門堂(本堂)
このお堂は、永禄8年(1565)に武田信玄公により再興され、延宝7年(1679)に修復再興されている。
入母屋造り、正面に鬼面を配す。間口四間半、奥行五間半。
唐破風、欅柱の四角、海老紅梁によりお堂とつながる。その上は透かし彫りの、右ぼたん・左菊の二重紅梁。向拝上の木鼻は横に象・正面に狛犬が彫刻されている。
百足の彫り物
戦国武将武田信玄公伝令隊として活躍した百足衆ゆかりの寺であり、本尊上の欄間には、百足の彫り物(体長約2メートル)がある。
新羅桜(県指定天然記念物)
初代甲斐国主新羅三郎義光公のお手植えと伝えられる。
樹令:約400年(本樹)
種類:エドヒガン
夢窓七朝国師と毘沙門天(道満)
後醍醐天皇の帝、嘉暦年中(1326〜1328)の盛夏十九歳の青年僧は天然の絶景乾徳山に憧れ、その山山頂近くの大自然の岩窟に座禅し、修行されました。すると忽然として雛僧岩窟を訪れて青年僧に云う『私は大願あれば貴僧に毎日干し柿を一個供養したい、貴僧の半片加えて日一果半となります、これをもって命の糧としてください、貴僧の修行が成就する前に命を失っては私はこれを嘆きます。』青年僧はこれを聞いて怪異に思い雛僧にいいました。
『そなたは年少にして賢い、だが出家なき故は供養は受けることはできない。どうだろう私の弟子になってくれか』と。雛僧は承諾して師弟の契りを結び『道満』と云う法名と木綿の袈裟を授けられ、雨の日も風の日も干し柿一個を手向けて、怠らず九十日が過ぎました。
その甲斐あって修行が成満しました。師弟手を取り合って下山しました。しばし彩雲一抹の富士、銀陀の笛吹川、東に重畳の大菩薩領、西に起状する金峰、八ヶ岳連峰の展望を眺めていったところ、常に先導していった『道満』の姿が、はたとして消えてしまいました。
青年僧は不審に思い『道満、道満』と呼びながら界隈を尋ねたが遂に道満の姿ははたとして見当たらず、精根つきはて草原にまどろむに『道満』夢に現れ、『ここ下りし里に霊佛ありと告げ消えてしまいました。奇異の念抱きながら尾根を降り、徳和の里に入るに毘沙門堂がありました。拝するに厨子が自然に開き本尊様が『干し柿を供養した道満の顔に瓜二つでありました』あまつさえ与えた袈裟をかけ柿の種が厨子の中に散乱してあり、青年僧は始めて感得し『かたじけなし』と七日間、本堂に参詣して報恩感謝の浄行をしました。この青年僧こそ室町時代の高僧夢僧国師であったと伝えられています。
またこの毘沙門堂でのおつとめを終えると疲れた僧はこの里の名取八ヱ門宅で快くお持て成しを受け、疲れを癒し、里を降り乾徳山が見えるところに寺をたてました。それが現在の恵林寺です。